八尾市(やおし)は、大阪平野の東部に位置し、概ね平坦である。
市の南端を大和川が流れる他、旧大和川水系である長瀬川、玉串川などの小河川も見られる。
市の東部は高安山をはじめとする生駒山系が控えており、奈良県との府県境を形成している。
市の南部には八尾空港があり、陸上自衛隊の駐屯地や民間の小型航空機に供用されている。
旧分国では河内国に属する。古代においては河内湖がこの付近まで広がっていたと考えられている。一帯は物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされている(またそのことが市名の由来となっている)が、物部氏は物部守屋のときに蘇我馬子とこの一帯で戦い敗れたために滅亡した。
朝鮮半島での白村江の戦いで敗北した大和朝廷は唐の侵攻に備えるために西日本で朝鮮式山城などの防御施設の整備を進め、この時高安山にも高安城が築かれたとされる。1978年に遺構が発見されたが後にこの高安城は、壬申の乱以降に再建された高安城の倉庫であった。しかし、1999年に奈良県立橿原考古学研究所と八尾市教育委員会文化財課の合同調査で高安山頂の北西300mで花崗岩を二段積みした石垣がおおよそ100m続いているのを発見した。その後の調査などから城壁の高さは10mを越えるものであり、高安山の西側斜面の6箇所には方形に張り出した尾根の先端を平坦に整地してあり、その平坦地の周囲には石垣が構築されていた。この平坦地には他の古代城のように高い櫓を建てていたものと推測されている。この平坦地からは大阪湾が一望できることから、往時は瀬戸内海を監視したのではないかと推測されている。
戦国時代から江戸時代初期にかけて一帯は度々合戦が繰り広げられる場所であった。中でも大坂夏の陣においては北の若江(東大阪市)、南の道明寺(柏原・藤井寺市)と並んで序盤の激戦地となった。
江戸時代中期、それまで八尾市域を貫流して淀川水系と合流する流路を形成していた大和川の付け替え工事が行われ、堺方面に流れるようになった。これにより度々水害に悩まされていた状況が改善されると共に、大和川の付け替え後の川床は新田として新規農用地の開拓が進んだ。川床跡の砂地は木綿栽培に適しており大坂という消費地が近かったため、商品作物としての木綿の栽培や農村工業としての紡績が盛んになり、全国でも有数の裕福な農村となった。
明治以降は大阪だけでなく八尾も綿糸生産で繁栄したが、次第に外国産の安い綿花の輸入を求める声が紡績業界に強まり、ついに輸入綿花の関税が廃止され八尾の綿花栽培は大正末期までに急速に衰えていった。その後は綿を生産していた農家や工場がブラシ生産に活路を見出し地場産業とした。
1889年には大阪鉄道(現JR大和路線)、1924年には大阪電気軌道(現近鉄大阪線)が開通。交通・物流の便が良くなったため、大阪近郊の手頃な通勤住宅地・また工場地帯として開発されていった。
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